――大石さんはカンボジアとかかわって長いとお聞きしております。当時のカンボジアはどうでしたか
大石安慧(以下、大石) カンボジアに来たのが2000年です。私は当時、日本で生花の先生をしていて、弟子が200人くらいいました。当時のカンボジアは銃声が聞こえたり、瓦礫の山や街中には裸の子供たちがモノを食べられずに泥だらけで這いずり回るという地獄のような光景でした。同じ人間として、同じアジアの民として何か手伝いたいと思いました。
娘婿の転勤でカンボジアに来て、大使館で政治部の一員として働いていたのですが、カンボジアの事を本当に想っている人に会いたいと言うと、娘婿がカンボジアに偉大な人がいると、王立プノンペン大学のプッチャム学長を紹介されました。彼は教育と人材でカンボジアを立て直すと言ったのを聞いて感動しました。日本も焼け野原から立ち上がりましたし、カンボジアでも同じなのだと感じました。
帰国後、世田谷にNPO法人を立ち上げ、カンボジアの支援を始めました。また、56歳の時ですが、昭和女子大学に入学しました。大学4年、大学院3年、博士コース2年、論文を書いて合計で10年勉強しました。選考は日本文学科言語コースで、カンボジアについての論文を書きました。
――56歳になってもそこまで大石さんを突き動かすほどの強い想いに敬服いたします。でも、それだけで終わらないんですよね
大石 そうですね。観光しか資源の無いシェムリアップではホテルやガイドで働くことが花形なわけですから、日本語の教育を通じて戦後の日本人と同じように立ち上がって欲しいという想いから、2003年に「ホテル日本語」という本を書きました。プノンペン大学やホテルなどで販売してくれたのですが、未だに使われていると聞いています。出版当時はカンボジアで出版された日本語の本では初めてだと言われ、プッチャム学長から王立プノンペン大学に日本語学科を作って欲しいと懇願されました。
――なんというバイタリティでしょうか。つまり大石さんが日本語学科の礎を築かれたのでね
大石 そうですね。日本の外務省や文部省など日本とカンボジアを行き来して、なんとか日本語学科を作る許可がおりましたが、今度は学科長になる人材がいません。学科長はカンボジア人から選出しなければならず、日本語を学んでいる学生の中で優秀だったレスミーという子に私の母校である昭和女子大へ留学生させ、その後学科長になってもらったわけです。カンボジア政府からの支援も無いなかでやってきました。私たちは年間20名近くの奨学金を出していますが、3~4年経って日系企業が進出するようになり、奨学金を出す日系企業が少しずつ増えました。日本語教育を通してカンボジアに貢献したいという想いは一貫しています。
カンボジアには2007年にNGO、ALCコミュニケーションズを作りました。ALCとは、LはLanguage(言語)、CはCulture(文化)そして Communications(心と心の交流)です。「アジア言語文化交流協会」という意味になります。カンボジアの支援が終わったらアジア中を回ろうというのが創設メンバーの想いでしたが、まだカンボジアから抜け出れないですね(笑)。
――レスミー学科長は存じております。そのような過去がおありだとは知りませんでした。ところで、今でこそ、色んなところで日本語が学べるようになりましたね
大石 そうですね。現在、プノンペン大学の日本語学科には120人以上の生徒が学んでいます。最初は30人くらいからスタートしましたけど、今では応募が多くて落としています。その上で私が考えたことは、プノンペンの青年達というのは皆に支えられて守られて、他国からの支援を受けてきて、それが当たり前になってきたんです。しかし、今はもう頼っている場合ではなくて、自立しなければならないんです。そこで、自立するためにこの検定を始めることにしたんです。
自分のレベルを引き上げていかなければ検定試験に合格することはできません。ただ日本語学科で4年間勉強して卒業するだけ、それで就職していきますから、何にもスキルも特長が無くて終わっていくんですね。それが日本語学科長のレスミーの悩みでもあり、ずっと一緒に考えてきましたから。(後編へ続く)(取材日/2015年10月)