2014年10月1日
―――東南アジアにいらしたきっかけは何でしたか
ブレットン・G・シャーロニ(以下、シャーロニ) 1993年にカンボジア現代史における初の選挙が行われました。91年のパリ合意に基づくものでカンボジア人民党(CPP)と仏教自由民主党(BLDP)を話し合いのテーブルに着かせるため、また国民総意の政府を作るための選挙が執り行われたのです。当時の与党が選挙前にアメリカの弁護士を雇用するということで、私が指名されました。与党関係者から2か月の契約で来ないかと打診があり、米国政府顧問弁護士として働いているときにタイとの国境付近までは来たことがあるものの、カンボジアは未知の世界だったため快諾しました。2か月の予定できたわけですが、2か月が4か月になり、4か月が1年になり結局以後居残ってしまいました。
―――いつ頃何がきっかけでこの事務所を開設したのですか?
シャーロニ カンボジアに残ろうと思った理由がいくつかありました。その一つに新たな局面を迎えた新しい国の一部で働くということが最高な機会だと考えたのです。人も好きだし、場所も好き、多くの外国人はこの国に来てみると魅力に取りつかれます。もちろん様々な問題はありますがそれすら魅力に思えます。さて、ここに残ろうと決めた時、法律の仕事を続けるのが一番かと思いました。当時の政府はクメールルージュで弁護士を一掃したばかりでした。そのため新しい政府が新たな司法の専門家を探し求めていたのです。当時はフランスの法律家が数名のみで、理由はわかりませんがおそらく別な考え方の背景のある法律家が必要だと感じたのでしょう。
創業した理由はこの国の抱える問題へのお手伝いになればと思ったことと、法律家がいることで外国からの直接投資が増えると思ったからです。弁護士や会計士がいれば投資の際のリスク処理もできますから。
―――カンボジアの法律の多くのベースはフランス式なのですか?
シャーロニ 長いことフランスの統治下にあったことから多大な影響を受けていることは確かです。ただ近年は様々な国の事例を参考にしています。司法制度は常に変化するものですが、クメールルージュは司法制度そのものに反対していたので手を付けていません。PRK(カンプチア人民共和国)時代はベトナムの影響を多大に受け社会主義を持ち込もうと画策しました。その後は国連関連の法律家が入り様々な情報が入るようになりました。その後はいろんな分野の団体や国家が情報と価値観を持ち込みます。世界銀行、IMF、ADB(アジア開発銀行)の機関はもちろんのこと、スウェーデン、ドイツ、UK、カナダ、豪、日本などから司法コンサルが出入りしてきました。そのため司法制度はかなり改善されてきたと言えます。ただ古くからのしきたりが続いていることは否めません。
―――司法制度の改革はカンボジアにとって挑戦だと思いますか?
シャーロニ そうですね。ちぐはぐになっているところがありますので、司法制度の中でも解決のできない事柄はたまに出てきます。
―――例えを頂けますか?
シャーロニ 現在進行中の事案です。資金貸付に係るのですが、証券取引法と資金貸付法のほか様々な法律と解釈方法があり、そのために矛盾ができたり抜け道ができたりして話は平行線です。本来はこのような法律の矛盾や抜け道なども整備していく必要がありますが、かなりの数の専門家と時間が必要になります。
―――20年以上カンボジアを見てきてこの国の法律制度はどのように変化したと考えますか?
シャーロニ 塩漬けにされた司法制度にほとんど何の土台なく始まったことを考えると、それなりに改善してきたと思います。経済活動が増えるにつれてばらつきはありました。ただ金融関連の法整備は目覚ましく発展したと思います。世界銀行やIMF、ADB等の技術的指導の成果もありました。顧客である国際的な銀行家も驚くことがあります。まだそこまで近代化しているとは言えませんが、どの分野もそれくらいの進歩があればと思います。それくらい20年での変化は著しいものです。また、National Bank of Cambodia(カンボジア中央銀行) はうまく調整を買って出ていると思います。このように、進歩した面とそうでない面はその中の法令や慣例や業界の技術指導の量が原因だと思います。(次回へ続く)(取材日/2014年9月)