2015年7月13日
――カンボジアデイリーは歴史のある新聞ですが、発行されるまでの経緯を教えてください
デボラ・クリッシャー・スティール(以下、デボラ) 父バーナード・クリッシャーがニューズウィークの東京支局長で、60〜63年の間にカンボジアに取材に来ていたんです。内戦の前ですね。プリンス シアヌークがリーダーだった時で、この後、ベトナム戦争の前でもあります。
香港の支局長が東南アジアの取材者リストのブラックリストに入ってしまい、インドネシアやカンボジアなどへ入国できなくなってしまったんです。1962年くらいに、スカルノ大統領が日本へ来たとき、父が帝国ホテルのブックストアで会ってお話をしたら、インドネシアに招待されたんです。そこからスカルノ大統領と親しくなって、スカルノ大統領はシハヌーク殿下と友人だったんですね。ある時父がインドネシアを訪問してた時に、シハヌーク殿下に紹介され、カンボジアに招待されて行けることになったんです。そのおかげで父は1963年まで取材ができたんです。
ある時、父がニューズウィークに記事を書いたんですが、シハヌーク殿下のお母様の土地が売春婦のいる土地だという記事を書いたことで、父がブラックリストに載ってしまって入れなくなってしまった。
――それは大変なことになってしまいましたね。大丈夫だったんですか
デボラ しかし、その後許しを得て、60〜63年に取材が出来たことでカンボジアが好きになったのですが、父はブラックリストに載って入れなくなって、今度はシハヌーク殿下がクーデターで国を追われたんですね。二人ともカンボジアにいられなくなったんですが、その時期に父との友情がわいて、中国や北朝鮮で会ったりして、シハヌーク殿下に「カンボジアに戻ったら、私を手伝ってくれよ」と話をしていたそうです。シハヌーク殿下は戻るはずは無いと思っていたのですが、1999年戻ってきたんです。みんな長い戦争が嫌になって、平和を求めて、シハヌーク殿下が平和を持ってくると、リーダーにと、国連も関わって、1999年4月に戻ることになったんです。約束通り、父はカンボジアに言って殿下を手伝わなくてはとなって、私を連れていったんですね。
――運命的なものを感じますね。その時のカンボジアはどんな感じでしたでしょうか
デボラ その時みたプノンペンは、戦争でダメージのあるひどい場所でした。その時、カンボジアには新聞が無かったんですよ。それで父がカンボジアで新聞を作ると言う話をシハヌーク殿下にしたんですね。民主主義にはいろんな柱があって、真実を伝えるメディアがなければ人は情報が分からず、これは重要な物だから新聞をはじめるということになったんです。そのことをシハヌーク殿下に話したら、「君は馬鹿じゃないか。そんなことをしたら殺されるよ」と反対したんです。
――当時のことでしょうから、確かに危ないですよ
デボラ でも父は殺されたり、シャットダウンされないように、考えがあると言って、カンボジアデイリーのA4サイズがありますよね。その当時、カンボジアにもFAXがあったんです。もしカンボジアで発行できなければ、海外でそのニュースを発行して、色々な所にFAXできるようにということでA4サイズになったんです。一番はじめに出た新聞が1993年8月。それから毎日新聞を発行しています。
――カンボジア初の新聞は命がけの発行だったんですね。内容はどういうものだったんですか
デボラ 日刊紙は無かったんです。ゴシップのような当てにならないニュースはあったんです。父が発行しているニュースは、国際的に認められる基準が高いニュースをカンボジアで発行することを目的としています。プラス、カンボジア人のジャーナリストを養成するトレーニングもはじめたんです。スタッフをリクルートして集め、もう取り壊されてしまいましたが、Renakse Hotelというロイヤルパレスの真ん前にあったホテルの屋上を無料で貸してもらって、2台のマッキントッシュで始めました。イメージライターを使ってプリントアウトして、フィルムにして印刷して新聞を作っていました。
私は大学院を卒業したところで、アメリカでNGPの仕事をしていましたが、カンボジアデイリーの立ち上げの為にカンボジアへ向かいました。
1992年にプノンペンポストが発行されていますが、当時は月刊だったんです。デイリーはカンボジアデイリーがカンボジア初だったんです。(取材日/2015年3月)(後編へ続く)