2015年10月9日
――今回は、いろいろと凄いとの噂のコンドミニアムを建設するらしいですね。忙しい中、突然のインタビューで申し訳ございません。その話は最後にお聞きします。ところで、谷さんは不動産業を始める前が波瀾万丈だとお聞きしました(笑)
谷 俊二(以下、谷) いえいえ(笑)大学三年生の頃までは警察官になりたいと思っていたのですが、途中から警察官は向いていないと感じて、最大手の証券会社に就職しました。仕事が厳しく誰も行きたがらない業界(会社(笑))でしたが、一匹狼的な仕事という印象が自分に合っていると思いました。バブルが崩壊した2年後で株価も悪い時期でしたが、闇雲に働いたお陰で全国一位の成果を上げることもできました。当時は日経平均株価が1万円以上も下落するなかで、カンボジアに自衛隊を派遣したPKOをもじり、証券業界でも国費で株価を下支えするPKO(プライス・キープ・オペレーション)という、つまり今の中国と同じ事をやろうとしましたが、それが上司ともめるきっかけになってしまいました。株価操作を国がやって良いのかと。当時それを言うのは勇気が要りましたね。真面目に仕事をやっていたので、それは顧客のためにならないと思いましたし、しかし、会社の収益の事を考えたらやらなきゃいけないことも理解できる、だけどこれだけはおかしいと。それで1年半勤めた会社を辞めました。それがカンボジアとの最初の接点です(笑)。
――意外な接点ですね(笑) 証券会社を辞めて不動産業の世界に入られたのですね。
谷 証券会社を辞めた後は、地元に帰るのも格好悪かったので、勤務先があった所のマクドナルドのモーニングスタッフとしてアルバイトをしていました。マックシェイクの機械の組み立て方が覚えられなくて、いつもフリーターの子に怒られていましたね(笑)。アルバイト時代に今の嫁さんと知り合いましたが、よくついて来てくれたと思います(笑)その後、27歳の時に阪神淡路大震災があり、震災の復興をしたいという純粋な気持ちで建設業界に飛び込みました。
――これまた意外な経歴ですね。奥さんとの出会いは別の機会に詳しく伺いますね(笑)。建設業界に飛び込んでどうでしたか。
谷 建設のけの字も知らない中で、とにかく仕事を覚えなきゃいけないと必死でした。震災復興で朝6時から夜10時まで仕事の経験もないのに大きな公共工事の現場を任される異様な状況でしたが、おかげで短期間で仕事を覚えることができました。将来的な事を考えて宅建免許も取得し、建設と不動産の両方を行う会社として独立しました。震災の工事現場では家が倒れて当たり前だと思う建物を沢山見てきましたので、証券会社で働いていた時と同様に顧客のためになるものをやりたい、良い物を作りたいと思いました。そのためには全ての決定権限を持たなければならないと思ったのが独立のきっかけです。今年で19年目になります。
――なるほど。しかし、どうして海外に進出しようと思ったのでしょうか。
谷 日本で仕事をしながら絶えず海外進出の機会を伺っていました。中国やアメリカなどでは法律の壁があり小さな仕事しかできません。一方カンボジアは日本の法律とも似ている点も多く、また弊社の顧問弁護士もカンボジアに対応していたので法的なプロテクトはできると判断しました。円安のなかでドル資産を形成できますし。カンボジアであれば住宅事情は昔の日本に似ており、日本が過去に辿った道を辿っていくという予測がし易いという良さはあります。
――カンボジアに進出してみてどう思いましたか。
谷 初めてカンボジアに来た時、地元の神戸よりも土地が高いのに最賃が約60ドルという状態でしたので、訳が解りませんでした。それでも建築単価が日本の5分の1から7分の1だったので、これならできるなと。カンボジアという国は何でもチャレンジできる国ですが、一方で自分自身がパイオニアになってしまうという環境でもありますから、専門以外の事に手を出すべきではないと考えました。そこで自分の専門を活かそうと思い、建築や不動産業をすることにしました。カンボジアに日本人が増加するなかで単身赴任をしていると、家族一緒に住みたいなとやはり寂しく感じますね。そうなると、日本人が住めるようなファミリータイプの住宅が不足しているなと気付きました。ですが3千ドル、4千ドルという単価ではよっぽどの人でないと住めない。ファミリータイプの方たちが赴任する際に会社にとっても負担にならない程度の物件が必要なのではないかと思い、ファミリータイプのサービスアパートメントを開発しています。(取材日/2015年10月)(後編へ続く)