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TOP INTERVIEW
トップが語る、カンボジアビジネス(2017/11月発刊7号より)
新しい学びと経験が得られることが、非常に面白く感じました。 (1/2)

20歳という若さでカンボジアを訪れ、カンボジアの地に惹かれていった。
カンボジアで初のイベント会社、パワー・トラックス・プロダクションズを立ち上げ、その後イベント会社のキーラットイベント、音響・ライトを取り扱うスリー・シックスを展開し、カンボジアのイベント業界のトップを走り続ける。
そんなキーラットイベントのCEO、オスマン・オマール氏に、カンボジアビジネスの困難さやカンボジアに居続ける理由について話を聞いた。

20歳でカンボジアへ 一種の大学生活となった

若かりし頃にカンボジアでの人生を決めた理由とは。

 1994年、当時20歳の私は、シンガポールでコンサートのテクニカルプロダクション会社にフリーランスとして勤めていました。ある日急に会社の上司から、カンボジアのディスコクラブでサウンドシステムをインストールするビジネスを行うため、カンボジアに行かないかと提案されました。そのクラブはビッグ・ボス(Big Boss)と呼ばれ、当時プノンペンで最大のディスコクラブでした。当時、私はカンボジアに関する知識もなく、カンボジアでの生活を考えたこともありませんでした。しかし安全な国で、カンボジア生活もたった3ヶ月間だと保証され、カンボジア行きを決意しました。こうして、新たな旅が始まりました。

 カンボジアに来た当初は、国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が活動を終えて撤退し、多くのカンボジア国民が帰還した直後であり、カンボジア国内はまだ混沌としていた時代でした。道路は全く補装されておらず、今やカンボジアでよく目にする自動車やバイクではなく、皆自転車に乗っていたのを思い出します。また当時は、コミュニケーションと食べ物が私にとっての課題となりました。英語を話せるカンボジア人は10人に1人といった程度だったと思います。都市開発が計画され建物が整然と立ち並ぶシンガポールで育った私にとっては、カルチャーショックの連続でしたが、新しい経験と学びが得られることが非常に面白く感じられました。そのため、カンボジアでのビジネスや生活に適用しようと果敢に挑み続けました。大学に通っていなかったこともあり、私にとって一種の大学生活になりました。

 カンボジアに来てから3ヶ月後、勤めていたクラブのオーナーからカンボジアに残り仕事を続けるよう依頼を受けました。シンガポール先の上司や家族と話し合い、そのクラブでディスクジョッキー(DJ)として働くことになりました。当時、私はプノンペンで唯一の外国人DJだったと思います。

 私がカンボジアでの生活を決めた理由の一つには、カンボジアの豊かで美しい自然の風景があります。カンボジアに残るか考えていた時、プノンペンから車で20分程外れにある、小さな町を訪れました。そこには、シンガポールでは見ることのない広大な畑、山、ヤシの木、牧草地など、美しい景色と街並みがありました。シンガポールでは味わうことのできない自然豊かな環境に触れられる事に、幸せと喜びを感じました。こうして私はカンボジアに恋に落ち、カンボジアで生きていくことを決意しました。

唯一の外国人ラジオDJとなる

カンボジアで積んだキャリア、そしてオスマン氏がカンボジアにもたらしたものとは。

 クラブでDJとして働くようになってから暫くしたとき、新たに他のクラブからDJのオファーを受け、毎日2つのクラブで仕事をするようになりました。1996年にはラジオ局から、外国の曲を毎日2時間放送する番組のDJとしてオファーを受けました。当時カンボジアには、海外の音楽を放送するラジオ番組は無く、ラジオでもカンボジアで唯一の外国人DJとなりました。

 当時、曲のリクエストを受け付けるための電話を開設したのですが、電話先から多く聞こえてきたのは“Hello. How are you??”ばかり。多くのカンボジア人が曲のリクエストでは無く、私を英語の勉強相手として電話をかけてきていました。時には理解できない会話も多かったですが、それも一つの楽しみとなっていました。

苦境の中でのビジネス立ち上げ

カンボジアでの苦難とは。

 日々、クラブ2箇所とラジオ局での仕事を続けるうちに、夜にアルコールを飲まざる負えない日々が続き、健康を損なうようになっていきました。そこで1997年、クラブの仕事を断ち切ることを決意し、自分でイベント会社を立ち上げました。

 しかし、当時はカンボジア人民党とフンシンペック党による武力衝突が起こり、国内情勢が悪化。カンボジア経済に大きな悪影響を及ぼしました。始めたばかりの新たなビジネスも苦境に立たされました。明らかに危険で困難な時期だったと言えます。

 フンシンペック党らによる闘争中に、私は死を意識したことがあります。当時、闘いばかりのカンボジアでは誰もが銃を持っており、治安は日を増すごとに悪化していました。ある日クラブでDJとして働いていた時、酔ったお客さんから“ビューティフル・サンデイ”を流してくれとリクエストを受けました。流し終わった後も、同じお客さんから何度も同じ曲をリクエストされましたが、当然、他のお客さんもいるため他の曲も流します。しかしその瞬間、私の腹部には銃を付けつけられました。今でも忘れられない経験です。

 また戦闘が繰り広げられていた当時は、会社の全ての機器が盗まれ、事務所と収納スペースが破壊される事態も起こりました。ビジネスを始めるにあたり投資したありとあらゆるものが盗まれ、せっかく初めたビジネスもゼロに逆戻りとなりました。しかし私だけでなく、オフィスや収納スペースを持つすべての企業が被害を受けていました。

 それでもなお、カンボジアに居続けたのには理由があります。

キーラット・イベント
CEO
オスマン・オマール
Osman Omar
シンガポール出身。20歳の時に、当時勤めていた会社の上司からカンボジア行きを提案され、カンボジアへ。その後、カンボジアでビジネス・生活を始めることを決意し、イベント会社や音響・サウンド会社を設立。企業の商品発表イベントやコンサート、フェスティバルの開催を行う。

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