ミャンマーに進出する日系企業のための
B2Bガイドブック WEB版

業界別インタビュー

2017年6月29日

手掛けたシステムがミャンマー全土で使われる未来を夢見て

通信・IT

ソルトエンジニアリング
ゼネラルマネージャー : ゾーミンルイン Zaw Min Lwin
手掛けたシステムがミャンマー全土で使われる未来を夢見て
1998年から日本で14年生活し、うち8年は銀行系システムのJavaエンジニアとして勤務。日本でのJavaエンジニアとしてのキャリアを捨ててでも、今のミャンマーを自分の肌で感じたいと2012年12月に帰国した。開発案件を手掛けるには人材育成から、とJava教育の学校を運営するゾーミンルイン氏に話を聞いた。(取材日/2016年12月)
歯科大学からITエンジニアへ

—日本に行き、ITエンジニアになった経緯は。

 ミャンマーでは歯科大学に通っていましたが、当時の政変の影響を受けて大学が閉鎖されてしまいました。大学に行けなかったため、父の仕事を手伝いはじめました。米や土地の売買といった商売をはじめたところ、仕事は意外とうまく行き、機動に乗りました。その世界に入ると大人と付き合うようになり、お酒も飲みはじめました。お酒が好きになり、ほぼ毎日お酒を飲んでいました。すると、ある日そんな私を見かねた父親に思いっ切り怒られました。そして「日本に行け!」と言われました。日本行きのきっかけはお酒でした。父は昔、日本に滞在していた事もあり、僅かながら 私も父から日本語を習い、ほんの少しだけ話せたので、日本に行くことへの抵抗感はありませんでした。

 1998年10月に日本に渡航しましたが、4月入学のタイミングには間に合いませんでした。日本語もそれほどできなかったため、まずは日本語学校で日本語を勉強しながら、進路に関する情報収集をしました。ミャンマーで勉強していた歯科大学への入学も考えましたが、日本の私立歯科大学はあまりにも学費が高く断念。求人雑誌を眺めていたところ、ITエンジニアの給料が高いのが目につきました。また外国人であっても仕事のチャンスが多いのもポイントでした。そこで、ITエンジニアの中でも当時需要が拡大しはじめていたJavaエンジニアを目指そうと決め、大学選びをしました。当時、日本語スキルがそれほど高くなかったため、英語での受験が可能でJavaの勉強ができる大学を選び、経営情報学科に入学しました。

— 大学卒業後は、すぐにシステム開発の仕事に就いたのですか。

 日本の大学では自分の受けたい授業を選択できるので、プログラミング関係の授業ばかりを選び、Javaの勉強をしました。おかげで仕事も「開発」の仕事につくことができました。しかし、いざ入社してみると医療機器の販売・メンテナンスといった「営業開発」の仕事で開発違い。「開発」の言葉を見て、システム開発のつもりで入社したのですが、まったく畑違いの分野でした。その企業では2年間働きましたが、やはりシステム開発の仕事がしたい、と思うようになり、社長に相談した上で退社しました。

 その後、Java開発の仕事についたきっかけも、日本行きと同じくお酒でした。 お酒を飲むのが好きで、東京・駒込の辺りでよく飲んでいました。そんな中で出会った方から仕事を紹介していただき、Javaソフトウェア開発のキャリアがスタートしました。はじめは、契約社員として銀行系のシステム開発を担当。それから8年ほど銀行系のシステム開発の仕事に携わりました。当時、ミャンマーに戻ることはまったく考えていませんでした。

 ミャンマー帰国が頭に過ぎったきっかけは2011年3月11日の東日本震災です。震災発生時、東陽町にあるビル、東京イースト21の17階で仕事をしていました。地震でかなり揺れたこと、交通機関がストップして歩いて家まで帰ったことが思い出されます。その数日後、原発問題が発生した時、はじめて帰国を意識しました。仮にミャンマーに帰るなら、現地でJavaの仕事ができないか、と考えるようになりました。

ミャンマーでやるならオフショア開発と考えましたが、自分にはオフショア開発部門での経験はありませんでした。そこで、本社にオフショア部門への異動につき申し出て、異動させてもらいました。本社は中国にオフショア拠点があり、オフショア開発業務を経験させていただきました。ミャンマーへの帰国を真剣に考えるうちに、ちょうど民政移管のタイミングも重なり、ミャンマーを自分の目で見たい、自分自身が今のミャンマーに居たい、と考えるようになりました。日本ではITエンジニアとして給料を貰えていましたが、当時働いていた会社にはミャンマー拠点はありませんでした。そこで、ミャンマー進出を検討している日系企業を探し、ソルトエンジニアリング社とのご縁をいただき、ミャンマーに戻ることになりました。

「卒業後の仕事は紹介しません。」で他校と差別化

— どのような事業を行っていますか。

 現在は、Javaの学校とオフショア開発のテスト業務を担当しています。3年経ってようやくカタチになってきました。当初は、オフショア開発を含め、開発に関する仕事をしたいと考えていました。しかし、ミャンマーに関する情報を調べてみると、技術者の数も少なく、大型開発案件も少ない状況。実際にミャンマーに来てみても、技術者の教育が必要だと感じました。そこで、本当にやりたい開発業務はすぐにできない、との判断に至りました。技術者の教育が必要なのであれば、教育をビジネスにしよう、と考えて学校を運営することを考えました。それが今のビジネスのベースです。平行してオフショア開発のテスト業務も対応しています。

 学校については、自宅で近所の子供たちを集めて教えるところからはじまりました。当然、テキストもない状態からのスタートです。2013年当時のミャンマーでは、ウェブページ作成用の言語であるPHPの人気が高く、Javaはほとんど知られていませんでした。よって、学びたい人もほとんどいない状況でした。しかし、最近は環境も大きく変わってきています。

 弊校で人気の高いワンストップコースでは、ゼロからプログラミングできるところまで6ヶ月で教育するプログラムを提供しています。ありがたいことに、卒業生の紹介をはじめとしたクチコミで、入学の順番待ちが発生している状況です。授業料も決して安くなく半年間の授業料は約5万円。他の学校のように仕事を紹介します、といったサービスもありません。むしろ、私は彼らに「仕事は紹介しません。その代わり、自ら仕事を勝ち取れるだけの技術力と自信を提供することを約束します。」と伝えています。おかげさまで、本気の子だけが集まってきています。日系企業から代わりに社員のJavaの教育をして欲しい、との依頼も受けてサービスも提供しています。Java教育を中心に、3年目になってようやくカタチになってきました。

教える事が、楽しくてたまらない。

—教育ビジネスの醍醐味はどこに?

 最近は、教えること自体をとても楽しく感じています。お金だけを考えれば、当然日本の方が稼げます。日本とのブリッジエンジニアの道を選べば、もっと稼げるでしょう。でも今、教える側に立ってみて「教えるっていいな」と思っています。実際に、教え始めてわかったことですが、人に教えるためには、自分がさらに勉強しなければなりません。生徒には、よりわかりやすく伝えたいので、より深く勉強することになります。その学んでいる瞬間がとても楽しいのです。

 また、自分が学んだ上で生徒に伝えた事が、広がっていくのを見るのも楽しいです。具体的な例をあげると、私は個人的に、MyanmarJavaUserGroupというJava開発者が情報交換をするフェースブックページを管理しています。そのページでは、ユーザーが質問をし、また別のユーザーが回答する、といったことが日々行われています。ページ内で、弊校で教えた卒業生が回答する側にまわっているのを見ると、とても嬉しく感じます。人を介して、知識が世の中を渡り歩いていくような感覚で、その広がりは終わりがなく、むしろ倍々に広がっていくような感じです。知識が広がっていくのも教える側の醍醐味であり、それが見える瞬間は楽しくてたまりません。

自分が手掛けたシステムがミャンマー全土で使われる未来

— 次の一手は何ですか。

 今は学校が1校のみですが、まずは2校目の開校を目指しています。日本でも同じですが、エンジニアは自分でプログラムを書きたい人が多く、先生として教える人材の確保が難しく、簡単ではありません。先生の数を増やしつつ、学校の拡大をしたいと考えています。また弊社で育成した人材も増えてきていますし、そろそろ国内での開発業務にも着手したいです。元々「ミャンマーで開発をやりたい」と思っていましたし、開発に向けた一手を打っていきます。

 個人的には、自分が手掛けたシステムがミャンマー全土で使われている、そんな未来を実現させたいです。現状では、便利なオンラインシステムが整っていない分野はあらゆるところにあります。多くの困っている人の役に立てるシステムをつくりあげたいです。今のミャンマーであれば実現も可能ですし、ぜひともそこに挑戦したいと思っています。


ソルトエンジニアリング
事業内容:
URL:

その他の「通信・IT」の業界インタビュー