ミャンマーに進出する日系企業のための
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TOP INTERVIEW
トップが語る、ミャンマービジネス(2017/06月発刊1号より)
ミャンマーを世界の国から信用され、ブランド力のある国へ (1/2)

 ミャンマー随一のコングロマリット(複合企業)MAX Myanmarグループ。設立は1993年。日本からの中古車輸出業からはじまり、ミャンマーへの建設機械の輸出入、その後、ホテル建設、高速道路の建設と事業を拡大。設立から24年が経過した2017年現在時点では、銀行、保険、証券も含めた10事業を展開。多忙を極める同氏が、日系企業への期待を込めて応じてくれたのが今回の単独インタビューだ。
決して裕福ではない家庭の6人兄弟の中で生まれ育ち、12歳から家計を支えるために働きはじめた。会社設立から20数年で、MAXグループ全体で1万7,000人を超える規模に拡大させた同氏の熱い想いや目指す未来とは。(取材日/2017年2月)。

12歳から働きはじめ、大学の学費は自ら稼いだ

まずは学生時代のお話しを聞かせてください。

  私は、決して裕福とはいえない家庭で生まれ育ちました。6人兄弟の中で育ち、家計を支えるために12歳頃から働きはじめました。アルバイトのような形で、車の修理、ディーゼルオイルの販売、タイヤの修理・交換といった仕事をしていました。大学は数学科に入学しましたが、学費は、夏休みに実家に戻って働くことで自ら稼いで支払いました。
大学を卒業した1988年にシンガポールに渡航しました。船員として、2年間ほど船で働きました。ビザが切れたらマレーシアに渡って働き、次の仕事があれば、また船に戻って働くといった生活でした。船員の仕事の中でオーストラリア、イラン、台湾など他国を訪れる機会があり、自分の目で世界を見ることができました。また船員として働く中で、分業の仕組みやシフト制での働き方なども学びました。多くのことを勉強させてもらいました。
その後、友人を頼って日本に渡航。日本にいた友人のおかげですぐに仕事をはじめられました。1日のスケジュールは、朝9時から夕方4時まで東武ホテルの厨房内で働き、夕方5時から夜11時までは大塚駅近くの居酒屋「かぼちゃ」で皿洗いとホール・キッチン、24時過ぎから明け方5時までは銀座の居酒屋、と働きっぱなしの生活でした。日本到着後半年間は寝る間も惜しんで1日20時間近く働き、電車での移動時間が睡眠時間の毎日でした。その6ヶ月間で250万円ほどのお金を貯めました。

22歳、たった1人で中古車輸出事業をスタート

マックスミャンマー社、誕生の経緯を聞かせてください。

 貯めたお金を元手に、最初の事業は日本で日本の中古車輸出の事業をはじめました。もちろん、たった1人からのスタート、当時年齢は22歳でした。
中古車輸出の仕事は、イエローページで取引先となりそうな会社を探し、電話や訪問を通じて取引先を探すところからはじめました。当時は、日本語もそれほど話せませんでしたので、英語対応可能な日本の会社や外国人が運営する会社に片っ端から当たりました。立ち上げ当時は、船の中で勉強して磨いた英語を使いつつ、仕事を通して日本語も磨きました。中目黒にあった「Max Trading」社の友人と意気投合し、同社名義で仕事をしていました。事業をはじめて6ヶ月ほどで、人脈もビジネスも広がり、ミャンマーだけでなくアフリカやパキスタンにも輸出するようになり、月間200台ほど輸出するようになっていました。中古車をオークションで買い付け、溶接・修理、お客様との交渉、各港での船への積み込みの立ち会いなど、すべて1人で対応していました。1日は24時間、時間は有限だからこそ時間を無駄にしてはいけない。そんな想いで働いていました。
1993年に日本に滞在しながら、兄に依頼してミャンマーで自分の会社を立ち上げました。現在の弊社名「Max Myanmar」は、当時の友人の会社「Max Trading」に由来しています。自分の国も好きなので、Myanmarの名前も入れて「Max Myanmar」と名付けました。
ミャンマーの会社設立後も2年ほど、日本で車の輸出に関する仕事をしていましたが、1995年4月ミャンマーに帰国。当時は、アルバイトの社員と2人だけでした。帰国後は、車だけでなく、建設機械や発電機も輸入しました。当時は、道や林も未整備だったため、今後必ず建機のニーズがあると考えてのことでした。すべての機械が売れるわけもなく、売れ残る機械もありました。

中古車事業から建設業を足掛かりに事業拡大。

関連会社10社を抱える規模になっていますが、事業拡大の経緯を聞かせてください。

 売れ残った機械の有効活用のため、ダム建設や道路建設プロジェクトの下請けとして、建設業も手掛けるようになりました。いざ建設業をはじめてみると、他の企業が3年から5年の期間を要するプロジェクトを、1年から1年半のスピードで終わらせ、各方面からの信用を勝ち得ることとなりました。日本やシンガポールで働きながら、国際水準の仕事を学んできた経験が活きたのです。時間管理手法や、シフト制等の海外で学んだシステムの応用により、納期短縮が実現しました。建設業で勝ち得た信頼から、高速道路の建設事業も手掛けるようになるなど事業が広がっていきました。
日本からの帰国後すぐにチャウンタのビーチを訪れたことがあり、ビーチの美しさに感動を覚え、いつかホテルを建てたい、と思い続けていました。建設会社としてのノウハウも蓄積されて来た頃、資金的な余裕もでき、タイミングも巡ってきたため、ホテルマックスチャウンタの建設を手掛けました。このホテル建設の経験が活かされ、その後、ネピドーのホテルマックス、ヤンゴンのノボテルヤンゴンマックスの建設・経営を手掛けました。現在はインヤー湖にマックスリゾート・インヤーを建設中です。こうした経緯でホテル事業も手掛けるようになったのです。

ネピドーのホテルマックスを建設する際、今後の建設関連ニーズのさらなる拡大を予想して、セメント工場事業も手掛けました。機械が古く、技術的にも各社のニーズに合わなかったこともあり、結果的に40億円ほどの赤字を抱える結果となってしまいました。当然、ビジネスですから、儲かるものもあれば赤字になるものもあります。今は同じ敷地内に工場を建て直し、機械も入れ替えました。
その他の事業では、2000年にゴム農園の話を持ちかけられた際も、建設機械は揃っているからやってみよう、と同事業にも着手しました。12歳の頃からタイヤの修理等をしていたためゴムに関する知識も多少はありましたので、取り組むことに決め、現在は3,350エーカーの農場を経営しています。2010年には政府がガソリンスタンド事業の民営化に舵を切った際の入札に参加し、5つのガソリンスタンドを買収しました。12歳頃からずっとディーゼルオイルの販売はやっていましたので少しばかりノウハウはありました。ゴム農園、ガソリンスタンド事業、いずれも原点は幼少期にあり、様々な巡り合わせがあって、今に至ります。

ミャンマー国民の1人として「国のために」できることを。

いまやミャンマーの国を代表する企業です。どのような事を考えてビジネスをされていますか。

 ミャンマーに戻り事業をはじめ10年が経過した2005年頃からは、「ミャンマーの国のために何かをしたい」と考えるようになり、現在のエーヤワディー基金の前身ともなる社会貢献活動にも取り組みはじめました。
2008年4月にベンガル湾で発生し、5月ミャンマー全土に甚大な被害をもたらしたサイクロン・ナルギスの際、半年〜1年ほどの間はヤンゴンを離れて活動しました。死者・行方不明者は13万人を超えるとされ、被災者数は240万人を超える大災害でした。私は、災害後、被害の酷かったエーヤワディー管区に滞在し、私財6億円ほどを投じて現地の復興支援にあたりました。家が流された人のために家を寄付し、食べ物を寄付し、消防車やボートも寄付しました。他にも、親が亡くなってしまった孤児のための孤児院建設や、100校近い学校の修理や建て直しも支援しました。私はミャンマー人であり、ミャンマーを愛しています。ミャンマーの国のために自分は何かできるか、それだけを考えて必死に取り組んできました。
国のためを思って取り組んできた活動が評価され、予期せず政府から声を掛けられ、はじめることになった事業もあります。
2010年に幸運にもライセンスを取得したAYA銀行の業務は、思いがけずはじめることになった事業の1つです。銀行経営をしようとは、それまでまったく考えたことはありませんでしたが、当時の財務大臣から直接呼び出しを受けたことがきっかけでした。会談の中で、「これまで真面目にミャンマーの国のために活動してきたことを評価している。ぜひ国のために取り組んで欲しい。」と声を掛けられたことをきっかけに、銀行業をはじめることになりました。
他にも前述のセメント工場や、ヤンゴン・バゴー間の高速道路建設等、政府側から声を掛けられて取り組んだ事業はいくつかあります。国のためを思い、誠実に取り組んできたことを評価されての結果であり、賄賂等一切支払うことなく数々の依頼を受けてきました。
弊社は国際水準の会社を目指しており、透明性の高い経営に取り組んでいます。おかげさまで、2015年には、キャピタル・ファイナンス・インターナショナル社が選ぶ、ESG(環境・社会・ガバナンス)の透明性表彰において、ミャンマー最優秀賞を受賞しました。これからもさらに透明性は高めていきたいと思っています。
弊社は税金をしっかり支払い、CSR(社会貢献活動)にも取り組んでいますが、国のためを思えば、これまで以上に社会貢献活動に取り組んでいく必要があると思っています。エーヤワディー基金を通じた社会支援活動も同様の考えの下で、取り組んでいます。
長い目で見て環境に悪影響を及ぼす仕事や、世間一般の評判が悪いビジネスについては、いくら今後の収益の見込みが大きくてもすぐにやめます。将来的に赤字に転換しそうな仕事についても同様で、現時点でいくら儲かっていても止めるようにしています。長期的視野で物事を判断するようにしています。今は銀行も経営していますし、人々からの評判が以前にも増して重要になっています。私はいつも結果重視のマネジメントを行なってきましたが、結果を厳しく求めつつ、プロフェッショナルとして、仕事に磨きを掛けていきたいと思っています。
ミャンマー国民の1人として、自分自身どこまでできるのか、常に挑戦の気持ちを忘れないように心掛けています。例えば、小さなことですが、車のドアを開けてもらうこと等、気を遣われることが嫌いです。自分でできることはすべて自分でやりたいのです。私が挑戦し続けること、すべてが国のためになる、そうした信念を持ってこれからも取り組んでいきます。

マックスミャンマーグループ Max Myanmar Group
Chairman
ゾーゾー氏    U Zaw Zaw
 ミャンマー随一のコングロマリット(複合企業)MAX Myanmarグループ。設立は1993年。日本からの中古車輸出業からはじまり、ミャンマーへの建設機械の輸出入、その後、ホテル建設、高速道路の建設と事業を拡大。設立から24年が経過した2017年現在時点では、銀行、保険、証券も含めた10事業を展開。多忙を極める同氏が、日系企業への期待を込めて応じてくれたのが今回の単独インタビューだ。
決して裕福ではない家庭の6人兄弟の中で生まれ育ち、12歳から家計を支えるために働きはじめた。会社設立から20数年で、MAXグループ全体で1万7,000人を超える規模に拡大させた同氏の熱い想いや目指す未来とは。(取材日/2017年2月)。